デリケートジャスミンに抱かれたい

大好きだよ、当たり前じゃん

『ミッドナイトスワン』周りから、わたしの中を覗いてみた

今日はとりとめのない話。いつもかもしれないけど。あっ、ネタバレ含んでるので、目に入れたくない方は一旦お帰りください。

 

先日、『ミッドナイトスワン』という邦画を見て、メッセージ性にぶん殴られた思いがしました。

すごくいっぱい泣いて、その後の用事もできずに真っ直ぐ家に帰って、寝込んだし吐きました。見る前に食べた昼食を、夜になって戻しました。泣きすぎたのか何なのかわからないけど、すごく頭が痛かった。

えらいもの見たな、すごいな。と感心していて、後日のこと。

 

『ミッドナイトスワン』という映画は、トランスジェンダーの描写としてはあまりよろしくない、という意見をいくつか目にしました。

えっ、そうなんだ。と当初ビックリしてしまったのですが、(あれはわたし的にトランスジェンダー云々よりも、凪沙さんと一果ちゃんの、ゴツゴツしていてぶきっちょで、でも美しい愛の物語だと思っていました)その意見を咀嚼していくのと同時に、自分が『ミッドナイトスワン』をエンターテイメントとして消費していくのは、LGBTQの方々を踏み躙る行為と同義なのかなと思って、すごくうつうつとしてしまいました。

 

例えば、ちょっと、結構? 前に、顔を黒く塗って黒人に扮したバラエティが日本であったときに、「それは黒人への侮辱だ」という意見が多数上がりました。

バラエティを見ている方たちからしたら、そんなことは関係なく楽しんでいるのに、という意見もありましたが、その肌を黒く塗るのは、米国で黒人をあざ笑う昔の番組と同じようなスタイルであった……という歴史を知り、「それは批判されてもやむなしだし、現代にはそぐわないだろうな」と当時のわたしは思いました。今でもそう思います。

では、今作は?

 

「マイノリティをお涙頂戴ものに利用している」

わたしはそうは思いませんでした。作中でそうなった経緯について、その人は「ちょっとサボっちゃって」と言っていましたし、ああ、それって誰にでもそういうことに近いものってあるよなと受け止めました。そしてそうなるに至った理由も、わたしの中、受け止め方では補完されていました。

けれど、実際にそういう捉え方ができる作品でもあります。それに、直接の起因は、登場人物がマイノリティであるがゆえに起こったことでした。

 

「そういう話じゃないじゃん!」ってわたしは言えませんでした。自分が感じた心の震えとか、作品に殴られた衝撃とかが、「マイノリティの人たちへの捉え方が甘い」という意見に一蹴された気がしました。

 

別に、「増田まつりの考え方はおかしい。愚かだ」と名指しで言われたわけではありません。

でも、「マイノリティへの捉え方が甘い」にわたしは当てはまるのです。差別主義者だ、時代遅れの感性だ、と罵られた気分になりました。誰もわたしを名指しで罵ったわけではないのに。

 

いつもそうなんです。自分の意見や考え方とは違う意見・考え方が出たときに、自分の意見の正当性、あっていいという自信がなくなってしまう。

反対の意見に耳を傾けよう、認めようとすると、自分の意見・考え方・感情を、「正当性が薄い」と、自身で否定してしまう。

善・悪や可・不可を自分でつけてしまう。これって一種の完璧主義なんでしょうか。

 

昔、「それはおかしいでしょ」という考え方を、母に押し切られてしまって、それ以来「自分は自分の意見を盲信しないようにしよう」と心に決めました。

でも、自分の意見の正当性が確保できないのがとてもつらい。

間違っていると罵られている気がする。正しくなければいけない気がする。善悪を判断するなと言っても、それで踏みにじられている人がいるのだとしたら、早く足をどけなければならない。けれどどけるためには、盛大に頭を打って、人に踏みにじられなければならない。

踏みにじられたくはないから、人を踏みにじりたくないのに、わたしは勝手に一人で転んで、痛みに悶えている。そんな気がしてならないのです。

 

基本的に、無神経な人間からチクリと言われて、不器用なりに言い返したときに、「そんな言い方ないだろ」とか「言われて傷ついた」とか言ってきたり、傷ついたことを態度に示す人っているじゃないですか。

貴方、その前にわたしのこと、傷つけましたよね? とめちゃくちゃイラッとするのですが、今回の場合、わたしは「無神経な人間」の立場にあるのだと思って、本当にしんどい。

正当防衛以外に加害したくない。自分がされて嫌なことを他人にしたくないと思って生きているけど、自分はいつでも自他含めて嫌なことや痛いことをされることに甘んじてしまっているのが嫌なんです。

もうちょっと、自分の考えに自信を持ちたいな。自信というか、「あってもいいよね」という考えを持ちたい。