デリケートジャスミンに抱かれたい

大好きだよ、当たり前じゃん

『ミッドナイトスワン』周りから、わたしの中を覗いてみた

今日はとりとめのない話。いつもかもしれないけど。あっ、ネタバレ含んでるので、目に入れたくない方は一旦お帰りください。

 

先日、『ミッドナイトスワン』という邦画を見て、メッセージ性にぶん殴られた思いがしました。

すごくいっぱい泣いて、その後の用事もできずに真っ直ぐ家に帰って、寝込んだし吐きました。見る前に食べた昼食を、夜になって戻しました。泣きすぎたのか何なのかわからないけど、すごく頭が痛かった。

えらいもの見たな、すごいな。と感心していて、後日のこと。

 

『ミッドナイトスワン』という映画は、トランスジェンダーの描写としてはあまりよろしくない、という意見をいくつか目にしました。

えっ、そうなんだ。と当初ビックリしてしまったのですが、(あれはわたし的にトランスジェンダー云々よりも、凪沙さんと一果ちゃんの、ゴツゴツしていてぶきっちょで、でも美しい愛の物語だと思っていました)その意見を咀嚼していくのと同時に、自分が『ミッドナイトスワン』をエンターテイメントとして消費していくのは、LGBTQの方々を踏み躙る行為と同義なのかなと思って、すごくうつうつとしてしまいました。

 

例えば、ちょっと、結構? 前に、顔を黒く塗って黒人に扮したバラエティが日本であったときに、「それは黒人への侮辱だ」という意見が多数上がりました。

バラエティを見ている方たちからしたら、そんなことは関係なく楽しんでいるのに、という意見もありましたが、その肌を黒く塗るのは、米国で黒人をあざ笑う昔の番組と同じようなスタイルであった……という歴史を知り、「それは批判されてもやむなしだし、現代にはそぐわないだろうな」と当時のわたしは思いました。今でもそう思います。

では、今作は?

 

「マイノリティをお涙頂戴ものに利用している」

わたしはそうは思いませんでした。作中でそうなった経緯について、その人は「ちょっとサボっちゃって」と言っていましたし、ああ、それって誰にでもそういうことに近いものってあるよなと受け止めました。そしてそうなるに至った理由も、わたしの中、受け止め方では補完されていました。

けれど、実際にそういう捉え方ができる作品でもあります。それに、直接の起因は、登場人物がマイノリティであるがゆえに起こったことでした。

 

「そういう話じゃないじゃん!」ってわたしは言えませんでした。自分が感じた心の震えとか、作品に殴られた衝撃とかが、「マイノリティの人たちへの捉え方が甘い」という意見に一蹴された気がしました。

 

別に、「増田まつりの考え方はおかしい。愚かだ」と名指しで言われたわけではありません。

でも、「マイノリティへの捉え方が甘い」にわたしは当てはまるのです。差別主義者だ、時代遅れの感性だ、と罵られた気分になりました。誰もわたしを名指しで罵ったわけではないのに。

 

いつもそうなんです。自分の意見や考え方とは違う意見・考え方が出たときに、自分の意見の正当性、あっていいという自信がなくなってしまう。

反対の意見に耳を傾けよう、認めようとすると、自分の意見・考え方・感情を、「正当性が薄い」と、自身で否定してしまう。

善・悪や可・不可を自分でつけてしまう。これって一種の完璧主義なんでしょうか。

 

昔、「それはおかしいでしょ」という考え方を、母に押し切られてしまって、それ以来「自分は自分の意見を盲信しないようにしよう」と心に決めました。

でも、自分の意見の正当性が確保できないのがとてもつらい。

間違っていると罵られている気がする。正しくなければいけない気がする。善悪を判断するなと言っても、それで踏みにじられている人がいるのだとしたら、早く足をどけなければならない。けれどどけるためには、盛大に頭を打って、人に踏みにじられなければならない。

踏みにじられたくはないから、人を踏みにじりたくないのに、わたしは勝手に一人で転んで、痛みに悶えている。そんな気がしてならないのです。

 

基本的に、無神経な人間からチクリと言われて、不器用なりに言い返したときに、「そんな言い方ないだろ」とか「言われて傷ついた」とか言ってきたり、傷ついたことを態度に示す人っているじゃないですか。

貴方、その前にわたしのこと、傷つけましたよね? とめちゃくちゃイラッとするのですが、今回の場合、わたしは「無神経な人間」の立場にあるのだと思って、本当にしんどい。

正当防衛以外に加害したくない。自分がされて嫌なことを他人にしたくないと思って生きているけど、自分はいつでも自他含めて嫌なことや痛いことをされることに甘んじてしまっているのが嫌なんです。

もうちょっと、自分の考えに自信を持ちたいな。自信というか、「あってもいいよね」という考えを持ちたい。

タイトルは考え中

最近気付いた(?)のですが、日々思ってることをちまちまツイートにするよりも、こういうブログがあるんだから、ちょっと文章にして吐き出してみようと思った今日この頃のまつりです! おすぎです! ピー子です! 名乗らないと何となく気になるんだよ。何故。

 

現在特別定額給付金で食いつなぎつつ(範囲広げていただいて本当にありがとうございました)、求職活動中なのですが、自分の気持が疲れない程度なので、YouTubeをよく覗いています。

 

で。ちょいと見ている動画で参考チャンネルとして紹介されていたものを調べたところ、

おっきいおっぱいを見せびらかしながら料理を作ってる動画がいっぱい出ました。

えっ、えっちだ〜///// 同性でも性的魅力にあふれる人は妬ましいのとドキドキが混ざってあわあわしちゃいますね。モテない女の僻みと中学生男子のようなトキメキって両立するんだな……新しい発見。

こうあの、目を覆いたいけど指の隙間からチラチラ見たいみたいな……。なんだこの気持ち。

 

で。

それと同時に思い浮かんだことがあります。

あれです。宇崎ちゃん献血ポスター騒動。

 

色々と賛否両論飛んでたな〜と思うのですが、あの騒動のフェミニスト(自称含む)の中には、

「胸の大きさを強調するのはけしからん! 性的魅力を使うはやめろ!」「あんなん公開セクハラやないか!」と強く批判していた方もいました。

当時わたしがツイッターで見ていたのは、その手の人たちの根本の意見は「献血ポスターに使うには性的魅力に溢れすぎて、不適切なんじゃない?」という意見が多数派(そのため、その後のマンガで啓蒙献血コラボに文句を呈してる人は、わたしは見かけませんでした)でした。うん。宇崎ちゃん献血ポスターはね。

 

その後、「広告の実在モデルさんのプロポーションがお見事過ぎて、『えっちすぎるだろ!』とその実在モデルさんが叩かれる」騒動が置き、「性的表現を見たくない人」の存在が可視化された気がします。

 

宇崎ちゃん騒動のときには、わりと反フェミニストの方たちは「表現規制派のフェミニストこそが女性の敵だ!」という主張をされるのが見受けられて「いや、女性を叩いてるんじゃなくて、性欲要素をそこはかとなく入れてくる世の中の風潮が嫌なんじゃないの……?」と思っていたわたしは、実在モデルさんの訴えにめちゃくちゃ悲しくなりました。

うっそやろ。何でや……。

 

ただし、今日の『おっきいおっぱいを見せびらかしながら料理を作ってる動画』を見たときに、自分にも「こんなにえっちなのはドキドキしちゃうからいけないと思います!」という意見が出て、性的魅力のアピールに抵抗がある自分に気付きました。

ドキドキしつつも妬みからか嫌悪してしまう。 これが行き過ぎたときに、わたしは自分を守るために、他人を攻撃してしまうかもしれない。勝手に傷付いただけで、誰からも攻撃されたわけじゃないのにね。

 

もしくは、今のわたしは「自分のために相手にやめることを強要する人」になりかけているかもしれません。

 

わたしがフォローしてて、憧れの女性でもある元鈴木さん さんが以前、「スーパー銭湯でくつろいでいたときに、楽な格好をしていて、男性から目のやり場に困るからと服装を注意された」というツイートをされて、それも議論の一つになっていました。

 

女性を性的対象とする男性だって、そういうことへの嫌悪や、遠慮はもちろんあるでしょう。

でも、それを自分たちの中で収めて、他人に控えるように押し付けてはいけない。だってやりたいようにすることを、している人本人は決めたんだから。

これは、元鈴木さんさんへお願いをした男性に向けた文ではなく、自分のための、気付いたことのメモです。うん。人は変えられないし。

 

それはそうと、えっちなおねえさんの料理動画はドキドキしちゃうので、今後そっと左向きの矢印を押すことにしました。わざわざ抵抗があるものを見に行くことはないし、棲み分けって大事だよね(古の腐女子の習慣)

 

あっ、あと台無しになるかもしれないこと言います。

表現規制派のフェミニストこそが女性の敵だ!」っていう男性が、

女性の味方であることはそうそうないので!

しこるならその人の目に触れないところでやってくれよな!

 

考えたり考えなかったりしてる

お昼だよ! 全員集合! 解散!

 

まつりです。何となく挨拶を挟まないと気まずい病にかかっています。

 

今日はHSPの話。隙自語。出、出〜www

ハートシルバーピカチュウ。嘘です。ハイパーセンシティブパーソン。日本語だと「めっちゃ繊細な人」。

多分ググるとサクッと大まかな説明は出てくるので、何それ? な人は興味あればググってください。

 

HSPの人はストレスを感じやすく、生きて日々受ける刺激(光や音などの物理? 的なものから、言葉尻などのソフトなものまで)に影響されやすいので、HSP気質のない人より少し生きづらいとされてます。

で、特徴の一つに「共感力が高い」「人の気持ちがわかる」というものが挙げられてます。

色んな要素からすぐに察することができるんだって。

 

わたしは2、3年くらい前に興味があって書籍を買って、当てはまることが多かったので「じゃあもしかしたらHSP気質なのかもしれない。参考にさせてもらおう」としていたのですが、

最近「ただの社会不適合者なのでは……?」と疑念を強めています。

疑念を持つ要因のひとつが、先程あげた「共感力が高い」「人の気持ちがわかる」です。

 

興味ないことには共感できないし、人の気持ちを察しても、当たっているかどうかはまた別の話。

ドラマの暴力的なシーンや、日々周りで誰かが怪我したり、しみる目薬差したりしてると、その痛みを勝手に自分で感じることはあるんですが、

HSPの貴方は人の痛みがわかる人……。優しいその気質を活かしてね」と言われると「はぁ?」と思ってしまうのがぼくの悪い癖(突然の右京さん)

その人が本当に何を考えているのかなんて、把握するのは不可能では???? とクソリプを送り付ける精神のわたしが、自分自身をせめます。だって私にはわからないもん。

 

「この人は自分の考えが通らないと気に食わないんだな」「この人わたしのこと嫌いだろうな〜。わかる〜! お役に立てず申し訳ねえ……!」とこっちで勝手に「相手は自分をどう見てるか」を考えたり結論出したりはしますが、それが的中してるかどうかなんて分かりようがないんですわ。むしろなんでHSPを論ずる人は断言できるんだろ。答え合わせしたんだろうか。

 

人の話は知らんが、わたしの「勝手なる結論づけ」が世の中にまかり通れば、クソリプパラダイスになってしまうこと間違いなしなので、

わたしはHSPのような、傷付きやすい気質持ちなのではなく、ただ性格の悪いトンチンカンなだけなのでは……?という心苦しい疑念が出てしまっているわけです。

治せよ、と言われるとぐうの音も出ないのですが、自分の気質を曲げて他者、世の中にガチガチに当てはめるのも苦しい。

参考にしつつも、「HSPなんです、ごめんなさいね」などとほざかないように、自分と他者のどちらも尊重しながら生きていきたいなどと思いました。

 

でも、自分の特性がちゃんと言葉として表現されてるのは羨ましく思います。「そういう人はいる(貴方は何も悪くない。生きていていい)」と言われているように思うので。

 

例えば、存在が承認されない人って、悲しいながらいると思うんですよ。

残虐に人を傷付け、命を奪った人。生活保護の不正受給者。狡く人から富や時間を搾取している人。自分のために人を傷付けていいと思っている人。etc…

そう言う人に分類されて、社会から消えることを望まれる人間になってしまいそうで、それがすごい怖いんです。

世の中は実力主義で、特性を生かしたりカバーしたりする努力をできる人は讃えられて、努力しないクズは当然のように疎まれるので。そりゃそうだよね。努力する人が報われる世の中でなければいけないよね。そうなるとわたしは生きていてはいけないんたけどね。

あぁ〜! 努力しなくても許されてぇ〜!!!!!!

好きという気持ちを噛み締めて、心が震えた話

ブログはとても久しぶりなまつりです。

はてブロなくなるとかなくならないとかなんかなかったっけ?

 


今日は備忘録というかメモというか。自分の心が震えた話です。

 

 

 

わたしは今(こんな曲の歌詞あったよね)、片思いしている男がいる。

そいつは結婚願望もないし、浮気性のヤリチンイケメンである。

彼女募集中の身ではあるが、わたしのような、肉を余らせた女は好みでないらしい。遊ぶ女には困ってないようなので、きっと選んでいるのだと思う。

 


彼奴はイベント運営の団体を立ち上げていて、わたしはそこで彼を知った。友人というよりかは、ホストと客の関係に近い。際限なく貢げるわけでないが、イベント参加費は彼の収益になるためだ。

営業をそこそこ掛けてくれるので、わたしはできる範囲でほいほい参加してしまう。元々楽しく魅力的なイベントも多いので、まあそこはよいのだけれど。

 


顔は好みのわんこ系ヤリチン顔なので、そこで好きなのかなあとも思っているのだが、如何せん彼奴の恋愛観(浮気性、責任取りたくない)はわたしの地雷である。地雷であるのに、寝ても覚めても好きで、一時期仕事も手につかないほどたそがれていたので、自分自身を「スイーツ(笑)」と嘲笑していて、さらにつらかった。

告白はした。付き合ってほしいとは言えなかった。一緒にどこか出掛けたいなとは思うが、わたしは生涯、笑いあって共に歩く人がほしいのと、年齢も年齢で子供もほしいので、縛られたくない彼奴に、いまの感情に流されて、付き合ってほしいとは言えなかった。

あなたのことが好きで、幸せであってほしい。という気持ちだけ伝えた。慣れているのだろうな、と思えるナチュラルなお礼の言葉をもらったし、気にならない奴だろうな、というわたしの読み通り、彼奴は気にしない男だった。なので、彼奴とわたしは、あいも変わらずホストと客のような関係である。ありがたい話である。

 


さて、そんな彼奴の運営イベントのひとつに、ウィンタースポーツをしに行く機会があった。

わたしは悲しいかな、身体を動かすのも苦手な肉々しいおんなである。身体を動かすのは好きだが、得意なスポーツは、身体が柔らかいことを活かしたストレッチくらいである。

運動が苦手なのは、コンプレックスでもあるので、件の営業をかけられたときに、「興味はあるけど、スポーツとか身体動かすやつって、めちゃくちゃ下手くそなんだよね」と話をした。

いいよいいよ、と適当に言うので、じゃあ……。と肉々しいスイーツ(笑)はのこのこと出向いた。

ゲレンデマジックとかで可愛く見えないかなエヘヘ、とか浮かれていた気持ちはすぐに消え失せた。やってみたい興味はあったが、何にもできないのである。

まず立てない。立とうとすると板が滑って、斜面に向かって縦になり、そのまま加速してしまう。

見ていたフィクション作品のようには上手く行かない。

スキー場は、運動できない肉々おんなが、のこのこと来てはいけないところだった。なけなしのお金で買ったリフト券や、借りた道具やウエアが、大層勿体なく思えてきた。ちびっこたちのソリくらいしか混ざれないし、他の人たちはウェ〜イ! とウィンタースポーツをエンジョイしている。

逆恨みとか、情けなさとか、自己嫌悪とかでこころが一杯になってしまって、わたしはゲレンデの隅で、涙目になっていた。

そこで彼奴が出てきた。

 


「まっすーw」

「やったことないやつが、しゃしゃってすんませんでした……」

「いいよいいよw 言ってたし教えたげるわw」

 


そんなこんなでスキー教室の始まりである。

立ち上がれずに笑われつつも、引っ張ってもらったり、リフトの降り方を教えてもらいつつも上手く降りられずリフトを停めては笑われた。

だが、終盤の方では、なんとか斜面を少しだけくだり、困ったら取り敢えず転ぶということができるようになったのだった。

彼奴は自前の板を持っている。もっと自分で滑りたかったろうに、落ちこぼれのわたしに滑り方をレクチャーしてくれた。

涙目だった気分も吹き飛び、滑れることに楽しさを覚えた上機嫌のわたしは、ふと帰りの車で子供の頃のことを思い出した。

 

 

 

わたしは子供の頃から、陽キャに憧れた陰キャであった。男子たちが楽しそうに遊んでいて、それに混ざっている女の子が、とても羨ましかった。

しかし、悲しきかな。陰キャで、運動下手で、わがままな子供の時分のわたしは、鬼ごっこなどで鬼になると、かんしゃくを起こすどうしようもないガキンチョだった。

男子どころか女子たちからも遠巻きにされ、わたしのかんしゃくはさらにエスカレートした。そりゃ友達できないわ、というちび肉だるまのわたしは、本だけが友達よ、なんて気取ったガキンチョになった。

 


それでも、わたしはずっと鬼ごっこや、身体を動かす遊びに入りたかったのだ。脚も遅く、遊びが成り立たないことが、すごく悲しかった。それに気付くには遅かったが。

小学校の体育はだいきらいな科目だった。他の勉強はそこそこできたので、余計に劣等感に苛まれてきらいだった。

幸いなことに、中学の恩師である体育教師が「体育は出来なくて当たり前で、だから楽しんでやろう」をモットーに授業をしてくれたので、身体を動かす楽しさを知ることが出来た。ただ、やっぱりこの世は実力主義。特に、一人でやるわけではないスポーツというものは、出来なければ他人の楽しさや興奮にも水を指してしまうので、やっぱり苦手だった。

 


そんな「身体を動かす」ことに、誘いをかけてくれる人がいた。それがわたしが片思いしている彼奴である。

 

 

 

「ああ、わたしはずっと『みんな』の仲間に入りたかったんだ」

 


「彼は、わたしを『みんな』の仲間に入れてくれる、ずっと求めてた人だったんだな」

 


「だから、わたしはあの人が好きなんだ」

 


このことに気付いたときに、ぽろぽろと涙が出てきた。

彼奴を好きであることを再確認して、好きであるという感情が、こころにいっぱいになって、涙になって溢れてきた。

この感覚を、心が震える。というのだろう。

帰りの道中、運転しながら、わたしは彼奴への感情を噛み締めた。

 

 

 

そういう備忘録である。

どうでもいいとしか、他人からは思われないだろう。

それでも、これだけ素敵な感覚と、好きという感情を味わえるのであれば、わたしはいっぱい恋をして、人を愛したいと思った。

 


人を好きになるっていうのは、とても楽しい。人の魂を削って、描かれたような芸術や、人ならざるものが形作った自然の姿と同じくらい感動する。

だから、みんなもいっぱい人を好きになってほしい。きっとわたしが叫ばなくたって、多くの人は分かっているんだろうけれど。

「昔付き合ってた恋人が好きすぎて、結婚できなかったヤツいないの?」への雑感

早速ですが、この匿名ブログを読んでくれ。

‪昔付き合ってた恋人が好きすぎて、結婚できなかったヤツいないの? https://anond.hatelabo.jp/20181101150549

 

イムリーに色々考えてしまって、しんみりしてしまった非匿名の増田です。

 

別れても好きなものは好きだろ

先日「世界のどこかで愛を叫ぶ」みたいなブログを書いたわたしです。

愛情が深いとか重たいとかは、既に受け入れました。それが所詮自己愛とか、執着とかかもしれないけど、他人への本物の愛に出来るようにしようと地味に頑張ってます。

まあそんな話はさておき。

 

この増田さん、「10年経って少し楽になった」というものの、その10年って途方もなく長くてつらかったんじゃないかな。なんて思ったり。

どんな別れ方をしたのかな、とか、どれだけ素晴らしい相手だったんだろうとか、どうして別れてしまったんだろうとか。

人の事情に興味本位で首を突っ込んでいいものじゃないのは分かるのですが、そういうものに思いを馳せました。

だってさ、「好きな人」から、「どうでもいい人」に落とすのって中々大変だよ。その人に非がなければ余計に。体験中なのでなおさら。

きっとこの増田さん、上手く昇華出来ない別れ方をされたんだろうな。っていうのが……つらくて……(自己投影する質)

 

相手のことを思うと、自分の中だけで折り合いをつけていかなくちゃならないことがあるのを目の当たりにしたので、余計につらい。だってさ、別れた相手にむけて後日感謝のメッセージなり手紙なり送るのは相手からすると恐らく不快でしかないじゃない。でも別れられた側としては自己満足でも相手に伝えたいし、わかってほしいじゃない。だから、どうにかして別れられた側は折り合いをつけなくちゃいけないけど、そんなの大勢いたらそりゃ上手く出来ずに長い時間掛けて引きずるよね。

 

好きでも、自分の幸せはまた別に考えなくちゃいけない

 

たださ、どれだけ相手のこと好きでも、もうその愛は相手に受け取ってはもらえないんだよ。

だって別れちゃってるんだもん。恋人として好きでも、もう恋人ではないんだもの。

この増田さん、結婚出来なかったことを後悔されてるんだろうか。一応これからの人生、何があるか分からないからわたしにも誰にも言えないだろうけどさ。

 

好きであることを貫くのもつらくて、けれども他の人を選べなくて。っていうのは、別れた最愛の恋人へも、それ以降付き合ってきた恋人へも、ひどい侮辱なのでは? と疑う自分もいるんです。

なんかね、上手く言えないんだけどさ。それはひどいんじゃないかな。自分で行動出来てないんじゃないかな。好きでいることを怠惰で続けて、他の人を愛せなかったのだとしたら、それはひどいんじゃないかな。

わたしがこの人を責める権利があるかどうかわからないけど。

この増田さんに同情はする。けれど、同じにはなりたくない。だって、別れた人をずっと怠惰に思い続けているのはつらいんだもの。

 

別れた人が大好きな人なら、その人のためにとびきりいい女(男)になって幸せになりたい。選んでくれたその人のために。別れを経験させてくれた・させてしまったその人のために、とびきりいい女(男)になって幸せになりたい。

 

人ってね、必要があるから経験するんですって。

(そんなこと言うと最愛の人を病気や事故で亡くした人たちはどうするんだ。って言われるかもしれないけど、まあそれは置いといて)

自分の選択で最愛の人を失ってしまった場合は、そこから学べることを学んで、未来にいかしていくしかないんだもの。

どうしたら良かったのか、とか、何かを学び取ろうとせずにただ怠惰に思いを引きずってるだけじゃ、そりゃ前に進めないよ。どういう別れ方をしたのか、わたしにはわからないから偉そうに言っていいことじゃないんだけど。

 

愛は抱えていていい。だって無理に捨てられないから。

でも、前には進まなきゃいけない。最愛だった人のためにも。あなたの人生は、あなたのものだから。

 

がんばろうよ。這いつくばってでも、どこかへ進もう。

 

大好きな元カレと別れたけど、好きだと叫びたい話

日記はお久しぶりな増田です。

そういえば今年の初めにセフレほしいって叫んでたんだなあと感慨深くなっちゃいました。今年か。

 

大好きな元カレの話

ツイッターで散々惚気てた4ヶ月ですが、見事に先日自爆し別れました。上司に短ぇなw と笑われました。やめて泣くから。

 

元カレを楓くん(仮名)とさせてください。

楓くんとは出会い系サイトで知り合いました。互いにセフレ探してた訳です。受ける(笑えない)

甘いものが好きという楓くんのために、お店を提案しお茶。その後互いにオーケーが出たのでホテルに行きました。うん、こざっばりしてる。

当時、楓くんはわたしのことを可愛いとか好き、とか褒めちぎってくれていました。これがのちの悲劇に繋がるんだな。つら。

煽てられて単純な喪女のわたし。あれよあれよと言う間にセフレから恋人に昇格を果たした訳です。大体これが1ヶ月くらい。

 

そこからの4ヶ月、ずっといちゃいちゃしてました。

本当楽しかった。誰かに恋人として認めてもらうのってなんて幸せなんだろうな。興味ない方ももちろんいるだろうけど、わたしはずっと人に認められたかった女だったので、余計に嬉しかった。

もうね、恋人いない歴イコール年齢だったのが本当コンプレックスだったんです。人から恋人として付き合うに値しない、とされてるみたいで、ずっとジリジリしてました。

お坊さんのお悩み相談サイトみたいなところに言われたらめっちゃ怒られた。だって本当につらいんだよ、認めてもらえないの。ガチ泣きしたよわたしゃ。

 

わたしのことを女の子にしてくれた楓くんは、神さまみたいな存在だったわけです。そんでもって気安い男友達でもあった。

その貴重さを見誤ったというか、甘え過ぎてしまったわたしでした。

 

大好きな元カレと別れた話

当初褒めちぎってくれた楓くんも、慣れてきて特に何も言わなくなってきました。月に3度会えていたのが2度になり、とうとう1度になる始末。わたしは職場で上司とうまくいかなかったり、引っ越しが控えていたり、実家の母親に悩まされたりのストレスで体調を崩し始めました。

親友は夏から不倫をはじめ、親が不倫離婚していてトラウマ持ちのわたしは、何となく距離を置いていました。依存先は必然的に楓くんになってくるわけです。今思うとこれもよくなかったんだな。

会いたい。会えない。それは仕方ない。でもつらい。

楓くんは友達と楽しんでる様子をLINEで教えてくれます。ずるい。羨ましい。さみしい。でも楓くんはわたしがいなくても友達がいるから平気。かなしい。

かなしくて、ポロリと本音をオブラートに包もうとして送るわけです。彼はそりゃ戸惑いました。そしてがんばって返信をしてくれていました。それでもわたしは満足できませんでした。

 

引っ越しが終わり、ひさびさに友人と電話しました。彼女の愚痴をひとしきり聞いて、通信状態の悪さから何も話せずにいました。そんなときに彼女からの一言。

 

「彼とは、上手くいってる?」

 

何故かそこから爆発して、ずるずると泣きながら話しました。

すき。すきなんだけど、彼はきっとそうでもない。

さみしい。誰も認めてくれない。きっと別れようっていったら彼は引き止めてくれない。

ずっと怖かったこと、不安だったことを話しました。彼のことだけじゃなく、実家のこと、わたしが不倫している彼女への不信感を抱いていること。ずっと10月に溜め込んでいたものが吹き出して、戻らなくなりました。最終的には友人から「ごめん! 寝るわ!」と投げられました。ごめんよ。次の日彼女には謝りました。

 

彼女には謝ったけど、感情の爆発はなかなか元に戻ってくれない。わたしはずるずると彼に不安をぶつけました。

よくないことはわかっていて、謝りました。

不安は言っていいんだよ、と優しい楓くんは言います。優しい。きみは本当に優しい。

わたしはそこに甘えて、甘え過ぎました。

 

長文で、正直に言いました。言葉は選んだんです。どうやったらわかってもらえるかなって考えながら、紙に書いて伝えたいこと、わかってほしいことをまとめて。

 

朝起きたら、「ごめん。もうまつりの気持ちに応えらない。別れてほしい」と返事がありました。

 

待ってほしい、と頼んだのですが、待ってもらえませんでした。会って話をさせてくれ、といっても、電話で、と彼は言います。

綺麗な思い出にしよう、とか。他のいい人と幸せになってね。とか、もう彼の中で決まってしまったようでした。

丁度仕事の休憩に入った直前にLINEが入ってて、即レスする形になりながら待ってくれと頼みました。必死すぎて彼に引かれて、怖いから会えないと言われました。そうしてわたしと楓くんの4ヶ月は終わったわけです。電話すらできなかった。

 

長いな。もうちょっと簡単に説明するつもりだったのに。

ふつーに語ってしまった。そういうところだぞ。

 

それが5日ほど前の話です。

街中通るたびに涙が出ました。テレビで美味しそうな料理のお店を見て、一緒に行きたいな。もう無理か。となんとも言えない気持ちになりました。

行きたいと言った旅行とか、互いの地元の話とか、事あるごとに思い出して仕事中泣きました。あっ、仕事はちゃんとしました。

 

わたくし、石井ゆかりさんという方の星占いがすごく好きで、よく読んでいます。

獅子座は、11月は愛の時期なんですって。愛の季節なんですって。わたしも楓くんも互いに獅子座でした。そして11月に破局。なんだそれ。楓くんにお似合いの人が現れるってことなんだろうか。わたしには無理だな。楓くんがいいのに。

 

ずっと、うじうじ悩んでました。今日まで。

 

世界に向けて元カレの楓くんが好きだと叫びたいわたし

 

ふとね。思ったんです。

 

やっぱ、楓くんが好きだわ。って。

 

もう恋人じゃないけど。最後は友達どころかセフレにすらなれなかったけど。気味悪がられちゃったけど。

寝てもさめても楓くんが好きで。美味しいご飯食べててほしい。友達と楽しんでいてほしい。可愛くて素敵な女の子と幸せになってほしい。

ありがとう。だいすき。別れたけど。もう楓くんの恋人にはなれないけど。

 

わたしは彼がずっと好きです。好きだった、でなく、好きです。

 

応えてくれなくてもいい。わたしは楓くんが好きだ。わたしの気持ちは、彼が関与しなくなって成り立つ。赤の他人になって、ようやくわたしは、わたしの気持ちだけで彼が好きだと言えるようになりました。おせーよ。

 

わたしを人間の女の子にしてくれてありがとう。あなたに愛されて、わたしは人間社会で一つのスタートラインに立てました。だいすきです。あなたのしあわせを願っています。

 

感謝も、だいすきだって気持ちも、もう彼に直接いうことは出来ない(気味悪い女から感謝されても余計気持ち悪いだけ)ので、ここで、仮名で、全世界に向かって告白します。

 

楓くん。だいすきです。ずっとすきです。

しあわせになってね。ありがとう。4ヶ月間本当にしあわせでした。人に言わせれば短い期間だけど、わたしにとって満たされた4ヶ月でした。だいすきです。あなたのしあわせを願っています。

 

そういうところだぞ。って思われる方多いかもしれない。

でも、わたしの中の「楓くんがだいすきだ」という思いを認めたとき、しんどかったのが一気に楽になりました。まだ涙は出るけど。

別れたあとつらいよね、しんどいよね。時が経つまで待つしかないね。ってみんなよく言うけど、今まさにつらい自分の中を緩和出来るものが欲しくなります。わたしの場合は、「楓くんがだいすきだ」という思いでした。

 

連絡取らないから許してくれよ。彼の世界をもう汚したりしないから許してくれよ。

わたしの思いが少しでも、彼に幸福を運んでくれるといいな。車の上に鳥のふん落ちてこないとか。宝くじ¥1000分当たるとか。

 

そんなこんなで、激重女は彼への愛を抱えつつ、日々をなんとか這い蹲って生きています。

自分自身をだめだとかクズだとか言わない・思わないようにしました。わたしは人に大切にされたいから。自分を含めて人を大切にしたいから。

 

楓くんなみに面白くて、顔が好みで、優しい人に愛されたい。だって彼の要素が大好きだから。

その未来のすきな人のために、そしてだいすきな楓くんの元カノとして、まずは元気になろうと思います。

 

元カレ(元カノ)を好きでい続けたっていい

こっちは好きでも、振られることってきっとよくあります。長年喪女やってきたわたしが偉そうに言える話じゃないけど。

ならその感情を無理に捨てることなんてないよ。そうわたしは思います。

そんなの昔からみんな知ってんだよ!!!! って殴られるかな。どうなんだろ。世紀の大発見や〜! って気持ちで記事にしようと思ったんだけど、わりと一般常識なのかな。それとも未練がましくて失笑のカテゴリなのかな。まあいいや。

 

感情はそうそう捨てられないよ。好きだとか、これ嫌いとか、嬉しいとか腹立たしいとか。

なら、それは他人に害を及ぼさないなら持ってていいんじゃないかな。にゅっと自分から現れるやつとは、共存したっていいじゃん。

 

自分の気持ちを、「あっていい 」と認められるのは、自分自身であっても嬉しいものです。

だから世界に向かって叫ぼう。あの人がだいすきだ! と。

そして幸運を祈ろう。呪いがあるとしたら、きっと祝いもあるだろうから。

 

今日はそんな話でした。

 

もし「これアイツやん」とお察しの方いたら教えてください。不都合あれば削除します。多分見ることないと思うけど。

推敲すること 文字に起こすこと

って、大事なんだ。というお話。

 

ブログではとても久々な投稿ですがご機嫌いかがですか。わたしはツイートを見てもらえば丸わかりかと思われますが、メンタルがヘラヘラしてます。強くなれないんだなこれが……。

 

今日はざっくりなお話。

 

推敲すること

実はこんな世界の隅っこで書かれてるブログですが、わたしなりに文章は推敲されてます。まあそらしっかりしたブログはみんなそうなんだろうけど。

この『推敲』がめんどくさくて、実はずっと書かないでいました。なんて野郎だ。

 

人に読んでもらうこと。それを意識すると、やっぱり記事の主張に一貫性をもたせたいなーとか、もうちょっととっつきやすい文章がいいなーとか、その手の人からしたらそんなの当たり前じゃーん、ってことに注意を払いたくなる訳です。

わたしはどうしようもないバカなので、一発でもう大絶賛! あーすごい! まつりさまさすが! みたいな評価得られないかなーと世の中ベロベロによだれまみれにしてますが、そんなのはどだい無理な話。(大事なことなので太字)

 

このブログはわたしが人から認められたくて書いてる承認欲求の塊ではありますが、同時に何処かでメンタルヘラヘラにしてる誰かに届けたくて書いてるブログでもあります。そうなんですよ。本当ですよ。

ならその共感してくれる人により染み込みやすい・受け取りやすい文章を出来るだけ書きたい。

こだわり始めると「あーもう駄目だ。やめたやめた!」ってなってしまいがちなんですが。

 

文字に起こすこと

でもさー、推敲するよりもまず行動するというか、文字に起こしてみないと始まらないじゃんね。

筋トレとかも計画立てたり、何鍛えようかなーとか考えても、取り敢えず一度何かをしないと始まらない訳です。

アウトプットする。行動する。はじめの一歩を踏み出す。先のことばかり見据えてても足元からはじめないとはじまらない。

 

どっちも大切なんだ。始めることも、それをきわめていくことも。今日はそんなメモでした。

はじめられない自分の不甲斐なさに落ち込んだりもするけど、できることからやっていきたい。そんな希望の目標を立てつつ、今日はおやすみなさい。